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10. The Great Multitude in Heaven
10. 天の大勢の群衆
前回の学びでは、印を押された十四万四千人のイスラエルの子らについて学びました。ユダヤ人のメシアニック信者(ユダヤ人でありながら、キリスト教を信仰する人々)だと考えられるこの人々に印が押されるのは、六つの印による天の混乱が起きた後です。マタイとマルコによる福音書の両方にその出来事に関する記述があり、天の印の後に主ご自身が介入され、四方から「選ばれた者」と呼ばれるすべての真の信者たちを集めるために御使いたちを遣わします。前回の学びでは、この内容をマタイの福音書(24章29〜31節)で読みました。それでは、マルコによるイエスの発言に関する以下の記述も読んでいきましょう。
しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。(マルコの福音書13章24~27節)
この神の民、選ばれたものたちが集められる出来事(携挙)は、大患難時代の7年間の後半に起き、その日時を知る者はいません。苦難(欽定訳聖書では「患難」)と迫害の時に続いて、太陽は暗くなり、地球の軸が揺り動かされるので、星が地に落ちたように見えるでしょう(イザヤ書24章18〜23節)。その時、人の子である主イエスご自身が大きな力と栄光を帯びて、イエスの血によって贖われ、新しい契約に入ったすべての人々を集める(携挙)ために御使いを送り出すと、マルコは書いています 。
この選ばれたものたちが天へ集められる出来事をヨハネの黙示録が裏付けているかどうか見ていきましょう。
神の御座の前に立つ大勢の群衆
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」(ヨハネの黙示録7章9~12節)
なぜ大勢の群衆は白い衣を着ており、ナツメヤシの枝を持っているのでしょうか(9節)?なぜヨハネはこれらを描写したのでしょう?
黙示録9章16節で、ヨハネは「2億」を数えていますが、この幻では、白い衣を着た数えきれないほどの大群衆を目にしています。白い衣は神聖さと純粋さを表しています。「しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである(ヨハネの黙示録3章4節)」。
神の臨在の前に白い衣を着て立っていることは、主に仕える際に白い衣服を着たイスラエルの「祭司」としての役割を表しています[1]。大贖罪の日、大祭司でさえ非常に特別な衣服を脱ぎ、儀式用の風呂であるミクベに身を浸して清めた後でなければ、神の御前に出るための白い衣を着ることができませんでした。神の御座の前の大群衆は、子羊の血によって贖われて祭司とされたので、祭司の白い衣を着ています。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民・・・(第一ペテロ2章9節)」。救われて集められた群衆はまた、ナツメヤシの枝を手にしているのが見られます。これは、エルサレムに入場した王なるイエスを迎えた人々が、彼の前にナツメヤシの枝を敷いた「受難の主日」のような祝宴を象徴します(ヨハネの福音書12章13節)。レビ記23章40節ではイスラエルに対して、仮庵祭りの間、主を喜び、主の御前でナツメヤシの枝を振るようにと命じています。黙示録7章にみられるこの描写は、大群衆だけでなく、そこに参加するものすべてものの神の御前での大きな喜びであり、あふれんばかりの感謝の噴出です。
マタイとマルコが伝えるように、主の到来と御使いたちによる聖徒の携挙は、苦難(患難)の最中と天のしるしの後に起こります。王座の前に立つこの大群衆が、キリストの再臨で御使いたちによって集められた(携挙された)ことをどのように知ることができるのでしょうか?その多くは大患難時代に殉教した人々であるという意見もあります。これに対する個人的な応答ですが、この箇所にはその群衆が「殉教した信者」であるとは直接記されておらず、この群衆は神の御怒りが注ぎ出される前に、迫害と苦難の中から御使いたちによって集められ、救い出された人々だと考えます。神の御怒りは、子羊が第七の封印(一番最後の封印)を解かれるときに起ころうとしています。携挙と神の御怒りは、立て続けに起こる連続した出来事です。イエスは、ルカの福音書17章26〜30節で、この最後の封印が解かれた時代の特徴を二つの例によって示しました。まず、ノアの時代の例を見てみましょう。
ノアの時代のたとえ(ルカの福音書17章26〜27節)
ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。(ルカの福音書17章26~27節)
ノアもロトも、人々が自己中心的に生きていたときに、神のために生きた二人の義人でした(ヘブル書11章7節;第二ペテロ2章7節)。ノアの時代、地上の堕落と罪深さはとても酷かったので、神は彼らの罪を裁かなければなりませんでした。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6章5節)」。箱舟から締め出された人々は、その周りにある悪に満足、または同意していました。彼らは義や永遠について心を配らず、そのままの生活を続けても平気だと考えていました。彼らは邪悪な世に生きていました。ノアの説教を無視し、この世の事柄だけを気にかけました(第二ペテロ2章5節)。イエスは、「その日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました(ルカの福音書17章27節)」と言われました。
主は、再臨される前に、酷い悪が現れる時代があると言われましたが、ノアの時代と同じように、人々はすべてが正常だと考え続けることでしょう。「食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだり」することは、ほとんどの人が今のためにしか生きておらず、世界で起きている邪悪な慣行についてこの上なく無関心であり、差し迫った裁きの時に気づいていないことを表しています。ノアが人々に対して、主が彼らを裁かれるだろうと説教したとき、人々はその裁きの宣言を無視しました(第二ペテロ2章4〜5節)。今日も同じです。ほとんどの人は、神が言われたことを気にせずに生活し続けます。主が箱舟に選ばれたものたちを導き、その扉を閉められたその日に裁きが下されました(創世記7章11〜16節)。「その日」と記されていることに注意してください!信者が御使いによって天に引き上げられ、連れ去られ、携挙されてしまうと、やり直しはききません。扉は閉じられるのです(マタイ25章10節;ルカ13章28節)。今こそ神と和解する時です。続けてイエスは再臨のときの様子に関して2つ目の例を挙げました。
ロトの時代のたとえ
また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。(ルカの福音書17章28~30節)
上のイエスのことばから、私達が心に留めるべき教えは何でしょうか?
どちらの例でも、主は敬虔な者を救うために介入されましたが、その同じ日に、主は不敬虔な者に対する裁きを始められました。私たちが今黙示録で学んでいる箇所では、子羊なる主はまだ神の御怒りをもたらす第七の封印を解いていません。ここでの焦点は、神の御怒りが始まる前の出来事にあります。第六の封印における天での混乱の中、キリストのものでない人々が主の臨在から身を隠す場所を探して、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。(ヨハネの黙示録6章16~17節、口語訳)」と叫びました。誰が立つことができるしょうか?そのような時に人々が立ちえる場所はただ一つ、神の御座の前です。イスラエルと世界中の信者は、神の御座に集められ清い白い衣をまとい、神のみ前に立ちます(黙示録7章9節)。
洗い清められた白い衣
すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(ヨハネの黙示録7章13~17節)
この黙示録の御言葉のなかで、どのことばが特に神のご性質やご計画について表していると思いますか?特にあなたに語られている言葉はどれでしょうか?
少し時間を取って、御座の前に立っている人々について考えてみましょう。反キリストが出現する患難時代前に携挙があるとする「患難前携挙説」が正しいとしたら、患難前に携挙された聖徒たちがこの大群衆(患難中に信者になった人々)を歓迎する様子が描かれていないのはなぜでしょうか。子羊、御使いたち、長老たち、王座の周りに立つ4つの生き物、そして神ご自身が王座に座っている様子を見ましたが、群衆を迎える側に患難前の信者の姿は描かれていません(黙示録7章9〜14節)。患難前の信者たちが群衆を迎える描写がないのは、携挙は一度だけ起こり、それはイエスが語られた天のしるしの直後、この箇所(7章)で起こるからだと考えます。教会は苦痛や苦難を経験することはないと考えるのではなく、それらに耐えられるように心を整えるべきです。十人の娘のたとえ話の教訓は、五人の愚かな娘たちは扉が閉められた後、そこに入られなかった点で非常に明確です。主人が五人の愚かな娘たちに後で戻ってくるように囁き、扉の中に招いた、などとは書かれていません。聖書は、扉は閉められ、愚かな五人の娘たちが後から婚礼の祝宴に入ろうとしたその嘆願は聞き入れられなかったと教えています(マタイ25章10節)。
大患難(新国際版では「苦痛」)を経験した信者たちが、神殿で昼夜を問わず神に仕える特権を得て、神が彼らの上に天幕を広げられ(「天幕」は「婚礼」を象徴、ルツ記3章9節)、彼らの涙をぬぐう様子を見ます(黙示録7章13〜17節)。「アーメン!」という言葉 は11節で御使いたちによって宣言されました。「アーメン」とは、「その通りになりますように」という意味の言葉です。
これら大勢の群衆たちはどのようにして天に集められたのか?
大患難や苦しみの時代に大勢の人が殉教すると信じている人もいますが、常に聖書によって御言葉を解釈するべきです。先に触れたように、マタイとマルコの福音書はどちらも、今日私たちが「携挙」と呼ぶ出来事によって、御使いたちがこれらの人々を天に集めると明確に述べています(マタイ24章29〜31節;マルコ13章24〜27節)。「携挙」という言葉は「真の教会」、つまり神にあって新生したものが天に引き上げられることを表すために使う言葉です。「携挙」という言葉自体は聖書にはありません。英語の単語はラテン語のrapereに由来し、「急速」を意味します。ラテン語の不定詞rapereは、第一テサロニケ4章17節で「引き上げられ」と訳されているギリシャ語の単語harpazōに由来しています。ギリシャ語のharpazōは、次のことを意味します:「力で掴み取る、または奪うこと。それは、押収する暴力の公然たる行為であり…素早く積極的に剥ぎ取ることによって、奪い、引き裂き、引き離し、引き抜き、取り除くこと」[2]。御使いたちがやって来て、私たちを捕らえ、天に連れて行きます。神の時間軸からこの出来事をもっと詳しく見てみましょう。
まずは、一緒に第一テサロニケ人への手紙4章13〜18節を調べましょう。この箇所から、使徒パウロが携挙や「引き上げられ」ることに関して何を語っているかが分かります。
眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(第一テサロニケ人への手紙4章13~18節)
上記の箇所で三回、パウロは「眠った人たち」について書いています。彼は死んだクリスチャンについて言及しています。主を知っている人が死ぬと、その人の体は墓の中にあるかもしれませんが、その人自身――つまり彼または彼女の霊――は主と共にあり続けます。したがって、ある意味、その人は決して死ぬことはありません(ヨハネ11章11~14節)。その人は「眠った」と表現されています。キリストが天から下って来るとき、14節では天にいるこの世を去った信者たちの霊と共に下って来ると告げています。彼らの復活のからだは、生きて地上に残っている人々が主と共にされるために引き上げられる前に、起こされるでしょう。17節にある「引き上げられ」という言葉はギリシャ語のharpazōに由来し、そこから「携挙」という言葉が使われるようになりました。
使徒パウロはコリントの教会に次のように書き送りました。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです(第一コリント人への手紙15章52節)」。
携挙のなかで私たちはどのように変えられるか?
先に触れたように、キリストが携挙の際に再臨される時、以前に眠りについた(キリストにあって死んだ)人々は主と共にやって来て、彼らの体を墓から引き上げ、空中でその霊と再会させます。
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。(ヨハネの福音書5章28~29節)
この出来事は、「死者の復活」または「最初の復活」と呼ばれます。2つの復活があります。1つ目は携挙で、キリストのうちにある死者が最初に復活するでしょう。地上でまだ生きている人々もまた、新しいからだで、空中で主に会うために引き上げられます。私たちのからだは、「瞬く間に」栄光のからだに変化します(第一コリント15章42節)。この歓喜や復活を経験する人々は、なんと幸いなことでしょう。
また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。(ヨハネの黙示録20章4~5節)
第二の復活は、イエスを通して与えられる神の無償の赦しの申し出を拒否する人々に対する裁きの一つ――大いなる白い王座の裁き――であり、それはキリストによる千年王国の後に起きます(黙示録20章7〜12節)。預言者ダニエルはまた、死者がよみがえることについて書いています。
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと捜し回る。」(ダニエル書12章1~4節)
第一の復活または携挙で、聖徒たちはキリストと似たような復活のからだをまといます。私たちが私たちと認識され得るという点では、この体にはある程度の継続性が見られますが、これは朽ちることのない体です。つまり、私たちから神の栄光が輝き出る、復活の体です。パウロは、私たち全員が死を経験するわけではないが、すべての信者が変えられると書いています。
私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。(第一コリント人への手紙15章49~53節)
この聖書箇所から特にどの言葉が心に留まりましたか?朽ちないからだを持つことは何を意味すると思いますか(第一コリント15章42節)?
内側にあるもの、あなたの敬虔な人格は、いつか明らかにされるでしょう。それは私たちの古い性質と同じではありません。パウロは、血肉のからだは神の国を相続することはできないと言っています(50節)。それは、もはや朽ちるものではなく、朽ちないものです(53節)。私たち全員が眠りにつくわけではありません。つまり、すべてのクリスチャンが自分の肉体から離れるわけではないのです。ある人々は、死を経験することなく即座に変えられます。キリストが即座に、一瞬で、または瞬きをする暇もないうちに、朽ちる体から朽ちることのない体へと変えられます(51〜52節)。パウロはピリピの教会への手紙の中でこの変容について語っています。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(ピリピ人への手紙3章20~21節)
「変えてくださいます」と訳されたこの言葉のギリシャ語は、Metaschēmatizōという単語です。これはギリシャ語の二つの単語によって構成されています。Metaは場所や状態の変化を意味し、schēmaは形や外見を意味します。つまり、変形したり、何かの外観や形を変えたり、作り直したり、作り変えたりします。[3]
朽ちることのない体とは、老化したり病気になったりしないことを意味します。新しい体は常に栄光に満ちています。あなたはいつも若々しい力を持ち、神の栄光があなたから放たれ、まばゆい美しさをまといます。ユダヤ人を恐れて弟子たちが扉に鍵をかけていた部屋に、イエスが壁を通り抜けて入ってこられたように(ヨハネ20章19節)、私たちも壁を通り抜けて、物理的な領域に縛られることなく瞬時に移動することもできるでしょう。
パウロは、私たちの新しい体はキリストの栄光の体のように変えられると書いています(ピリピ3章21節)。新しいからだに伴うこの輝きは、権威と麗しさを表します。イエスは、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。(マタイの福音書13章43節;筆者による強調)」と言われました。キリストに属する者は、天からの知恵によって尊厳を得ます。そこには柔和と喜びがあります。また力ある体とされます(第一コリント15章43節)。これは新しい体の特徴の一つですが、私はこれが肉体的な強さだけを示しているとは考えません。これには力と権威が伴います。なぜなら、キリストをありのままに見る時、私たちはキリストに似た者となるからです(第一ヨハネ3章2節)。私たちの体は復活させられ、イエスの御顔を見て、イエスの似姿へと変えられます。ああ、その日は何と素晴らしい日になるでしょう!
祈り:天のお父さん、私たちの罪の代価を贖い、サタンの支配から買い取るために、あなたのひとり子である主イエスを送ってくださった素晴らしい恵みと憐れみに感謝します。すべての国民、部族、言語からの大群衆と共にあなたの御前に立つ日を心待ちにしています。ハレルヤ!主イエスよ、来てください!
キース・トーマス
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本文中の特別言及のない限り聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。