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13. The Burial and Resurrection of Christ
13. キリストの死と復活
ヨハネの福音書19章31節〜20章9節
イエスが死んだとき、何が起きたのか?
今回もキリストの苦しみと死、そして十字架で起きたことについて続けて学んでいきます。正午に、闇が全地を覆いました(マタイ27章45節)。この暗闇は、エジプトから神がイスラエル人を連れ出す前に、エジプトを襲ったような完全な暗闇ではありませんでした(出エジプト記10章21節)。そこにいた人々は、その状況が展開するさまを目撃することができたからです。初代教会のある教父たちは、この暗闇がイスラエルの地だけでなく全世界を覆ったと書き残しています。初代教会の教父であり著作家であるテルトゥリアヌスは、自著『護教論』でこの出来事に言及しました。この本には当時のローマ帝国にいた未信者に宛てられた、キリスト教の擁護文が書かれています。「キリストが死なれ、正午に空は暗くなり、地は闇に覆われた。この日はローマの年代記にも記録され、今日まで古文書に残されている」。
イエスは死ぬことはないと、希望を抱いて十字架を見ていた人もいたでしょう。そのような人々は、預言者エリヤが来て(マタイ27章46節)、イエスが奇跡的に十字架から降りてきて、反対者や敵を打ち負かすだろうと考えていました。しかし、彼らはイエスの死の必要性をまだ理解していませんでした。イエスの身代わりの死を通してのみ、神の民に新しい命がもたらされるのでした。神の愛と義は、罪の代価が支払われることを要求したので、イエスは私たちの代わりに罪の罰を受けて死ななければなりませんでした。
その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。(ヨハネの福音書19章31〜37節)
午後3時にキリストが死なれ、過ぎ越しの祭りの特別な安息日が始まろうとしていたので(日没とともに安息日が始まります)、ローマ兵たちは重い木槌で二人の強盗の脚を折りました。脚を折ることで、体を押し上げて呼吸することができなくなるので、窒息死という形で強盗たちの死期が早められました。兵士たちがイエスのところにも来ると、イエスはすでに息を引き取られていたので、その脚を折る必要はありませんでした。その何百年も前に、預言者がこれらの出来事について預言していました。「正しい人には苦しみが多い。しかし主はそのすべてから救い出してくださる。主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない(詩篇34篇19〜20節)」。聖書はまた、ユダヤ人に過ぎ越しの子羊の骨を折ることを禁じています。「その骨を折ってはならない(出エジプト記12章46節)」。何百年もの間、ユダヤ人はそれが預言を成就するために来られる方の雛形であるとは知らずに、過ぎ越しの祭りの夜に子羊を食してきました。過ぎ越しの祭りでエルサレムの人口は少なくとも200万人に膨れ上がり、過ぎ越しの晩餐では一世帯につき最低10人の参加者が必要でした。神は子羊の肉を残してはならないと命じられました(出エジプト12章10節)。神の子羊を内側に取り込み、受け入れなければならないのです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネの福音書1章12節)」。
イエスは実際には死なず、十字架で気を失っただけだと主張する者たちが出てくることを、神はもとよりご存知でした。その反証として、天の父はローマ兵がイエスの脇腹を槍で突き刺すことを許しました。ヨハネは、イエスの脇腹から血と水が出たと証言しました(ヨハネ19章34節)。これは法廷で証明できる医学的な死亡証拠です。十字架による主な死因は、血液量減少性ショックと倦怠感窒息の2つでした。
血液量減少性ショックとは、血液が足りない状態に対し医師が下す診断名です。残忍な殴打と鞭打ちによって、あまりにも多くの血を失ったので、イエスの体は弱り果て、十字架を運ぶことができませんでした。血液量減少性ショックが起きると、患者は低血圧のために倒れてしまいます。腎臓も体液を保つために機能を停止し、それが喉の渇きを引き起こし、心膜(心臓を取り巻く嚢)の周りに水が溜まります。死の直前、血液量が少ないために心拍が速くなると、心臓と肺の周りの嚢に体液がたまります。キリストの脇腹から水と血が出たというヨハネの証言は、血餅が血清から分離したことで死に至ったことを示唆しています。主が最初の人であるアダムの脇腹から妻のイヴを造られたように(創世記2章22節)、キリストの花嫁も最後のアダムであるイエスの脇腹から確認されるその死から造られたのです。
神のすばらしい御業
しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」(マタイの福音書27章50〜54節)
「非常に恐れて(マタイ27章54節)」とあるように、何がこのローマ兵たちを恐れさせたのでしょうか?彼らが目撃したものや体験したことについて話してみましょう。
昼間に3時間続く暗闇は、不吉な予兆でした。私たちは皆、一般的な地震が何であるかを理解していますが、マタイは岩が裂けたことについて明確に言及しています(51節)。キリストの死を目撃した人々にとって、これはとても不安な出来事だったに違いありません。なぜマタイは岩が裂けたことについて言及したと思いますか?
エルサレムは非常に岩だらけの地形に築かれており、人を埋葬できるような土地はほとんどありませんでした。ほとんどの墓は周囲の岩壁から切り出されたものか、地表に建てられ、厚切りの岩、岩石や大きな岩で入り口をふさいだものでした。これらの岩が、マタイの言及している裂かれた岩だったのではないでしょうか。当時の人々は、閉ざされた墓が開いて、聖徒たちがよみがえって歩き回っているのを目撃したのです!彼らが誰であったか知る余地はありませんが、死んで埋葬された聖なる男女たちであったということだけはわかります。この出来事についての詳細を天国で質問できる日が待ちきれません!
なぜこれらの聖徒たちは、イエスの復活までエルサレムの門をくぐることができなかったのでしょう?彼らが多くの人々の前に現れたことの重要性とは何でしょうか?
使徒パウロは次のように書きました。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(第一コリント人への手紙15章20節)」。イエスはこれらの「眠ったもの」からの最初のもの、「初穂」だったのです。
神殿での出来事
イエスが死なれたとき、神殿の中である出来事があったとマタイは書いています。まず神殿の構図を理解してから、神殿の幕に起きたことの重要性について考えていきましょう。
神殿の建物は、巨大な幕で隔てられた2つの部屋で構成されていました。最初の部屋は聖所と呼ばれ、幕の後ろのもう一方の部屋は至聖所と呼ばれていました。最初の部屋である聖所では、供えのパンの机にパン、香の祭壇にお香、そして七枝の燭台にオリーブ油を補充する奉仕が祭司たちに任されていました。神の臨在から祭司たちを隔てていたのは、人間の手と同じくらいの厚さで、約9m幅の巨大な重い幕でした。その幕の向こうには、雲の中に住まわれる神の臨在のある至聖所がありました。またソロモンの神殿では至聖所に契約の箱がありました。それはアカシアの木でできおり、内側と外側が純金で覆われていました。契約の箱には十戒の石版が保管され、「贖いのふた」と呼ばれる金のふたが被せられていました。箱の両側には贖いのふたを見下ろす2人の黄金のケルビム(天使)がおり、それぞれの翼の片側は神殿の壁まで伸びていました(第一列王6章23〜28節)。
「シェキナー」と呼ばれる神の栄光、目に見える神の臨在が「贖いのふた」の上にあり、その臨在は雲のようでした。「その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る(出エジプト記25章22節)」。一年に一度の「大贖罪日」に大祭司は壮麗な儀式用の祭服を脱ぎ、亜麻布で作られた真っ白な祭服を着ました。彼は左足首に縄を結び、衣服の裾に小さな鐘を垂らして、香の祭壇から炭火を火皿にとり、雲のような煙と香の香りを伴って、至聖所に入ります。彼は指を雄牛の血に浸し、贖いのふたと契約の箱の前の床にその血をまき散らしました。祭服の裾にある小さな鈴が鳴ることで、祭司たちは大祭司が生きていることを確認し、犠牲の血が受け入れられずに大祭司が死んだ場合は、左足に結ばれた縄でその亡骸が引きずり出されました。
大祭司が無事至聖所から生還することは、いけにえの贖いの血が受け入れられた証でした。それが受け入れられることによって、神は憐れみを表され、人と会見されると主は言われました。神の民は神殿の中庭に大祭司が現れて、「赦された」と宣言するのを待望していました。人々がその言葉を聞くと安堵と喜びが起こり、彼らの罪はその年も赦されたのです。
一年に一度、罪の贖いのために血が撒かれることを覚えることは、イスラエルの礼拝の重要な部分でした。この儀式を通して、神が教え示そうしていたことは何でしょう?
キリストが死なれたその時に、衝撃的なことが神殿で起きたとマタイは記録しました。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂かれたのです。これは人にできることでなく、神の御業です。天の父は、キリストが犠牲的な死をもって捧げられたその時から、神に近づく新しい道が開かれたことを正式に示されました。もはや大祭司一人だけでなく、十字架で成された御業を通して、すべての男女が神の臨在に入ることができるのです。使徒の働きに記録されていることは驚くに値しないのです。「祭司たちが大勢、次々と信仰に入った(使徒の働き6章7節)」。神殿の幕が裂けたのと同時刻にイエスも死なれたことを祭司たちが聞いた時、その多くが驚愕してその意味を悟り、イエスを信じました。神は預言者を通して語られた新しい契約を成就されました(エレミヤ31章31〜34節)。
イエスの埋葬
日が沈み始めるとともに、神はある金持ちの男の心に触れ、イエスが丁重に葬られるようにされました。
その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。(ヨハネの福音書19章38〜42節)
ユダヤの指導者たちは、申命記21章23節の「死体を次の日まで木に残しておいてはならない」という命令を遵守するため、ピラトのもとへ行き、過ぎ越しが始まる日没までに死刑囚たちの死期を早めるようにと願い出ました(ヨハネ19章31節)。指導者たちは、神の子を拒絶し殺すという人類最大の罪を犯した一方で、律法の小さな命令を守ることに夢中でした。メシアを拒否することより大きな罪はありません。
イエスの宣教活動時代には信仰表明をする勇気がなく、隠れ信者であった、ユダヤ協議会の議員のアリマタヤのヨセフとパリサイ人のニコデモの2人は出てきて、イエスの死に敬意を表することを願いました。この二人はピラトにイエスの遺体を取り下ろすことを願い出て、ユダヤの埋葬の習慣に従って、高価な没薬とアロエを買い、約34kgの埋葬用の香料といっしょにその遺体を亜麻布で包みました。
没薬はエジプト人が遺体の防腐処理に使用した、香り高い棒状のゴムの木の樹脂でした。ユダヤ人はそれを粉状にして、アロエと混ぜて使いました。この混合物は硬化して、さなぎのように遺体を覆いました。
隠れ信者であった二人が、イエスの死後に自分たちの信仰を表明した理由は何だと思いますか?
おそらく彼らのキリストへの愛が、彼らの信念のために立ち上がるように奮い立たせたのでしょう。イエスが息を引き取られてから3時間後に始まる安息日を控え、指導者たちが遺体の遺棄場所として指定していた街のごみ捨て場ではなく、その遺体が丁重に埋葬される必要があると彼らは感じたのだと確信しています。ヨハネは、イエスの埋葬の際にニコデモがアリマタヤのヨセフを助けたことを語る唯一の弟子です。両者ともこの時点までは隠れ信者であり、イエスの生前にイエスのことを思わず、公に支援することもなかったため、その死に際して埋め合わせをしようとしたのかもしれません。
イエスの埋葬に使われた香料の量は、王の埋葬に匹敵するほど贅沢なものでした。これは、イエスが王の王であられることを考えると象徴的です。ニコデモが携えてきた香料の量は、100リトラで、没薬とアロエから作られた約34kgの軟膏でした。それは非常に高価だったことでしょう。御子の死と埋葬の全体像を見るとき、父なる神がその些細なことと思われる事柄まで御手の中に置かれていたことがわかります。指導者たちは当初、イエスを強盗たちと同じ墓に葬るつもりでしたが、その埋葬でさえ預言の成就に用いられ、神は富む者の墓を備えておられたのです。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。(イザヤ書53章9節)
アリマタヤのヨセフとニコデモに同行したのは、イエスとその弟子たちと一緒にガリラヤから来ていた女性たちでした(ルカ23章55節)。安息日が明けたら追加の香料を持ってこようと、彼女たちは墓の場所を確認しました。メリル・テニイの著書 “The Reality of the Resurrection(「復活の現実」の意)“では、当時の埋葬の習慣についてこのように書いています。
体は通常、洗われ、まっすぐにされ、脇の下から足首まで、幅約1フィートの亜麻布の包帯でしっかりと巻かれた。多くの場合、粘着性のある香り高い香料が、包帯やその折り目の間に塗布された。それには布製の包帯をつなぎ留め、覆いとしての強度をもたせるセメントのような働きももっていました。このように体を包んだ後、下顎がたるまないように、四角い布を頭に巻き、あごの下に結んだ。
マタイは、イエスが岩から切り出された新しい墓に入れられたと書いています。アリマタヤのヨセフはゴルゴタの近くでこの墓を所有していた人物であり、マタイは彼を金持ちだと記しています(マタイ27章57節)。このような金持ちの墓は、その中で人が立つのに十分な広さがありました。マタイはまた、墓の入り口の前に大きな石が転がされたと付け加えています。それからユダヤ人の大祭司と長老たちはピラトに、墓の周りを見張らせるために4人のローマ兵の警護を願い出に行きました。彼らは、キリストの弟子が遺体を盗み、キリストが死から復活したと主張するのではないかと恐れていました。欺瞞を防ぐために、石の扉には封印が施されていました(マタイ27章60〜66節)。重さ1トン以上ある岩が円形に彫られ、それを転がし入り口を塞ぐための溝穴も掘られました。
なぜユダヤの指導者たちはピラトに墓の周りにローマ兵の警護をつけるように願ったのでしょうか?なぜ自分たちの兵に警護させなかったのでしょうか?
指導者たちは、ユダヤ人が家族と一緒に過越の食事を祝う準備をしていたので、ユダヤ人の警備員を確保するのが難しいのを知っていました。それに加えて、ローマ兵は高度に訓練されていたので、ローマの警護の権威には絶大なものがありました。彼らが囚人を逃した場合、命はないということを彼らは知っていました。使徒伝には、使徒ペテロが牢に入れられ、4人一組の兵士四 4組に監視されていたと書かれています。天の使いが彼を牢から連れ出した後、ヘロデはその失態のために16人のローマ兵全員を処刑しました(使徒12章4〜19節)。
さて、ヨハネの福音書20章へと進みましょう。
さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。(ヨハネの福音書20章1〜9節)
イエスが生きていることをヨハネに確信させたものは何だったのでしょうか?
墓の入口から石が取りのけられていると初め弟子たちが聞いた時、彼らはイエスの身体が何者かによって盗まれたと考えました。マグダラのマリアはペテロとヨハネに、「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません(ヨハネの福音書20章2節)」と伝えています。ヨハネが墓に入ったとき、彼は「信じた」とありますが、何を信じたのでしょうか?彼は、墓に残された亜麻布を見たとき、イエスがよみがえられたと信じたのです。彼は最初に「理解した」一人でした。ヨハネが埋葬用の亜麻布の包帯を見つけたときに、彼がそこに見たものは何だったのか考えてみましょう。エジプトのミイラと同じように、遺体は亜麻布の包帯で包まれており、包帯の間には香料が施されていました。頭の包帯は他の包帯と繋がってはいませんでした。想像するに、その包帯はおそらく没薬、アロエ、香料で固められていたので硬かったでしょう。しかし、イエスの体は包帯を通り抜け、包帯と香料でできた脱け殻を残していきました。この不自然な包帯こそ、ヨハネがイエスが生きているのを知り、確信した証拠だと私が考えるものです。
マグダラのマリアが再び墓に戻って中に入ると、二人の天使がイエスの横たわっていた場所の、頭と足のところに座っていました。このことを考えると興味深い点があります。
一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。(ヨハネの福音書20章11〜12節)
これは贖いのふたの両側に二人の天使が立っていた至聖所の象徴ではないでしょうか!キリストの遺体が置かれたまさにその場所に、今や残された包帯がある両端に、2人の天使が座していました。イエスの墓は今や、神の恵みの御座を象徴しています!またイエスが大祭司職と清さを表す白い亜麻布を纏い、天の父の御前で私達を代表し、私達の罪の贖いのためにご自分の血を捧げられたことは、何と象徴的でしょうか!
イエスが神であり、復活されたならば、その事実への私たちの応答はどのようなものでしょうか?これは私たちの人生にどのような影響を与えますか?もし彼が実際に復活したと信じるなら、イエスに個人的な応答をする必要があります。それぞれがイエスを「私の王」として受け入れる決断をしなければなりません。
詳細な描写の理由
ある懐疑論者たちは、イエスは気を失っただけで、十字架で死ななかったのだと主張します。このことについて考えてみましょう。キリストは脇腹を槍で刺され、その死の証拠である「血と水」が脇腹から出てきました。イエスの遺体は約34kgもの香料で包帯に巻かれ、三日間食料や水なしで冷たい墓の中に封印され、墓の前ではローマ兵たちが見張っていました。この事実は、イエスが死んでおらず、その場を逃れたという主張を論理的に不可能にします。一体、この状況をどのように生き延びることができるでしょう?
同じくらい突拍子もない主張は、イエスの敵がその体を盗んだという考えです。弟子たちが復活を用いてイエスの神性を宣言することをイエスの敵は恐れていました。マタイは、ユダヤ人の指導者たちが、弟子たちがイエスの体を盗んだと噂を広めるようローマ兵たちに命じることで、復活を否定しようと試みたと書きました(マタイ28章11〜15節)。しかし、指導者たちは墓が空であったという事実は否定しませんでした。遺体が盗まれたとする説を提唱することで、イエスの墓が空であったことを認めたのです。
弟子たちはまた、イエスの死後、悲しみに打ちひしがれていたので、遺体を盗む理由がありませんでした。キリストの死後、彼らは迫害を恐れて隠れていたのです。私たちはまた、弟子たちの殆どが、イエスが神の子であると信じた信仰ゆえに、苦しみ、そして殉教したことも知っています。仮に弟子たちが盗んだなら、なぜ偽りと知っていたであろうもののために命を捧げるでしょうか?それから、復活から40日間にわたり、復活の主イエスが多くの人に現れました。パウロがその出来事について書いたとき、その証人500人のうち何人かはまだ生きていました(第一コリント15章6節)。
他の批評家は、女性たちが別の墓に間違えて訪れたのだと主張しますが、墓を警備している兵士たちは地に倒れていました(マタイ28章4節)。ローマ兵が墓を間違えることはなかったでしょう。福音書を書いた弟子たちが非常に綿密にこの出来事を説明するのは、この一点に福音の核心がかかっているからです。復活がなければ、希望も死後の世界もありません。イエスの信者の多くは、彼が生きていると確信していたために殉教したという事実が残っているのです。
イエスの弟子たちでさえ、当惑し、恐れていました。病を癒して死人を生き返らせた方がご自身を救うことができなかったとしたら、どうして弟子たちを救えるでしょうか?イエスが復活したことを弟子たちが知ると、多くの弟子たちが栄光の殉教まで、勇敢に、聖霊に満ちてイエスを証し続けたことを歴史と伝承が告げています。ジョン・フォクスは、殉教者に関する本を書きました。この本は1563年に、『殉教者列伝』という題名で出版されました。著書の中で、筆者は歴史と伝承によって伝えられた多くの弟子たちの殉教を記録しています。初代教会の弟子たちの殉教に関して、筆者が紹介しているいくつかを紹介したいと思います。
ヨハネの兄弟であるヤコブは、12人の使徒のうち最初に殉教した人物であり、ユダヤのヘロデ・アグリッパ王1世の命令によって斬首されたと伝えられている。使徒ピリポは鞭打たれ、牢に入れられ、十字架につけられた。マルコは、異邦人の偶像セラピスの儀式に反対した後、体がバラバラになるまで、アレクサンドリアの街を引きずり回されたと言われている。ペテロは、主と同じ十字架刑には値しないと感じ、同じ方法で処刑されることを拒んだため、逆さに十字架につけられた。小ヤコブ(イエスの兄弟)は石で打たれたと考えられていたが、まず寺院の塔の上から投げ落とされ、その後頭を打ちのめされたとの報告もある。ペテロの兄弟であるアンドレは、多くのアジア諸国に伝道し、聖アンドレの十字架として知られるようになったX字型の十字架につけられた。マタイの晩年についてはほとんど知られていないが、エチオピアで彼が地面に押し付けられ、斬首されたと記録するものもある。マッテヤはエルサレムで投石され、斬首された。ヤコブの兄弟であるユダは、メソポタミアのエデッサで十字架につけられた。伝統によれば、バルトロマイは伝道するために東インドに行き、そこで十字架につけられた。トマスはペルシャ、パルティア、インドで福音を説き、インドのカラミンで、拷問され、槍で刺され、火の中に投げ込まれた。ルカがどのように亡くなったかは誰もわからない。オリーブの木で絞首刑にされたと言う人もいれば、老齢で亡くなったと言う人もいる。使徒ヨハネはエペソで逮捕され、ローマに送られた。そこで彼は、沸騰した油の中に入れられたが死ななかった。それから彼はパトモス島に追放され、そこで黙示録を書いた。パトモスから解放された後、彼はエペソに戻り、西暦98年頃に死んだ。迫害と暴力的な死の中のすべてにあっても、主は毎日教会の群れに人々を加えられた。
弟子たちの殉教の事実を考える時、彼らが偽りのために命を懸けたと思いますか?イエスの復活の後に弟子たちが経験したことは、彼らの魂を燃え上がらせ、迫害と困難に直面しても福音を広め、イエスの行いについて繰り返し語り続けさせました。
このことを踏まえた上で、質問します。「神の子であり、王の王であると言われるこのイエスに、あなたはどう応答しますか?」
祈り:
今回の祈りについては、皆さん一人一人が天の父に自分の言葉で祈りを捧げるよう励ましたいです。神の愛に感謝し、もし心から人生を神に捧げたことがなければ、今日がその決断をする日となるかもしれません。
キース・トーマス
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本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。