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3. The Resurrection Body
3.復活のからだ
「家に帰る」ということ
「家に帰る」という言葉には何かとても特別な響きがあります。休暇や仕事、何かしらの理由で、私たちが家を離れる時、その親しみを感じる家に帰ることの素晴らしさを実感するものです。私たちが日常の環境に戻るときに、音、匂いや視覚を通して思い出させる何かがあります。それは、とても心地よい、家にいるような感覚です。英語では、ある関係について、その人と「家にいる」ように感じると表現します。つまり、その人の存在は、私達が家にいるときのように落ち着いて、自分らしくいることができるようにさせます。この学びを書く中、今日も世界中の多くの人々が家から追い出され、場合によっては家族から離され、彼らが大切にしているものを手放さなければいけない状況にあるということを考えさせられます。誰もが休息の場所、自分の家と呼べる場所が必要です。イエスは、この地上を離れる前、私たちのためにそのような場所を備えるために天に昇られると約束されました。私たちがイエスと一緒に住む場所、他に類を見ない家―私たちがこの人生で知っている家は、どんなに控え目であろうと、どんなに壮大であろうと、イエスが彼のものとされた人々のために用意したものと比較することはできません。
私がまだ十代のとき、アヴァロンというクルーズ船で食器洗いとして働いていました。その船はジブラルタルやスペイン、モロッコのタンジェやカサブランカを経由しながら、イギリスから北アフリカを航海していました。気温は約30度後半で、船内には冷房がない環境で長時間働いていました。さらに悪かったことには、私はデッキよりもはるかに暑いキッチンで働いていました。そして、多汗症のために毎日塩錠を服用しなければなりませんでした。長時間の勤務をしっかり果たした後に、勤勉に(?)パーティーライフをこなしていました(私がキリストを信じることになるのは、まだ数年後のことでした)。航海は2週間しか続きませんでしたが、大変な作業のおかげでずっと長く感じました。船がついにイギリスのドーバーの白い断崖を通過したときに泣いたのを覚えています。家はそこからわずか1時間の距離でした!特別な瞬間でした。その航海で家を離れていた間はとても大変だったので、二度と旅はしないと決心しました!(もちろん、私はその個人的な誓いを守りませんでした。)
- 家に帰ることに関して何か思い出はありますか?心に残っている思い出や、家に帰った時に良い気持ちになった理由をシェアしてください。
アフリカで宣教師としてキリストに仕えた後、ようやくアメリカに戻ってきたモリソン老夫婦の話があります。同じ船に、アフリカのサファリから戻ってきた当時のアメリカ大統領、テディ・ルーズベルトが乗船していました。テディを歓迎するために人々はドックに集まり、ニューヨークでは音楽隊の演奏とパレードが行われ、いよいよ大西洋を横断した定期船が岸壁に沿ってやって来るところでした。群衆とマスコミは、ついに帰国した大統領を垣間見るために待っていました。その一方、モリソンズ老夫妻はお金がほとんどなく、非常に簡素なアパートに住んでおり、その日港を出たときに落胆しました。ルーズベルト大統領が受けた歓迎を見て、夫のヘンリーはとても悲しくなりました。彼は妻に、キリスト教の宣教活動のために40年もの人生を捧げてきたのに、何かがおかしいと言いました。しかし、賢い妻はそのことを尋ねるために主の御前に行くように促しました。しばらくして、彼は「あなたはまだ本当の『家』に帰ってきてはいません、ヘンリー」と主に思い出させられて、晴れやかな表情で妻のもとに戻ってきました。
もしあなたが人生にひどく疲れたことがあるなら、「あなたはまだ家に着いていない」と思い出してみてください。同じように、もしあなたが気楽な人生に自己満足するようになり、持っているものや労力をこの人生での快適さを楽しむために使うなら、「この人生が全てではない」と考えてみてください。この罪に溢れた世界はあなたの永遠の住まいではないのです。この人生はほんの短いものです。キリストに信頼を置くなら、主が私たちのために来てくださる時が来ます。そして、この肉体を離れる時(死ぬ時)、または主人であり主であるお方が約束通りに戻って来られる時(再臨)、私たちはこの世の仮住まいである幕屋を畳みます(第二コリント五章1〜4節)。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネの福音書14章1〜3節)
前回の学びで、私たちは主が主の教会―聖霊によって新生した信者たち―を携挙するために再臨されることについて学びました。また、謙虚で誠実な者たちや、その行いに対して主が与えてくださる報いについても述べました。今回の学びでは、キリストの再臨時に信者たちに与えられる復活のからだについてみていきたいと思います。主は主のものとされた者たちをご存知であり(第二テモテの手紙2章19節)、キリストの再臨の時、主は4人の天使たちを送って、主の救いを受け取った者たちを集められます。
人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。(マタイの福音書24章31節)
私の見解は、艱難や迫害の前か後に1回、艱難の前にもう1回、合計二回のキリストの再臨があると教えるある聖書の教師の立場とは異なります。私はキリストの再臨が1回だけであると信じています。聖書のどこにも、キリストが2回再臨されることについて言及されていません。キリストの再臨で、教会は携挙されるか、雲の中で彼と一緒に捕らえられます。
眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ人への手紙4章13~17節)
上記は、教会の携挙についての典型的な一節です。他の学びでも述べたように、「携挙」という言葉は聖書にはありません。英語で携挙という言葉は、ギリシャ語の harpazo から訳されたラテン語 rapere を語源とした rapture が使われています。この言葉は「ひったくられる」ことを意味し、上記の「引き上げられる」(17節)という言葉に翻訳されています。上記の出来事は、主イエス御自身の号令によって起こります。主の口からどのような言葉が号令の大声とともに発せられるのでしょうか。また、ラッパの大きな響きも聞こえることに注意してください。キリストにあって死んだ、また眠った人々は、その再臨時にキリストと共に連れてこられ(14節)、即座に変えられ、彼らの肉体と再会を果たします。その時まだ地上で生きている人々は、世界中のすべての信者と共に集められる前に、これらのことが起こるのを見るでしょう。
- 私たちの霊が天の御国に行った後に、新しいからだをいただく重要性や目的とは何でしょうか?
からだの復活
私たちが「教会の携挙」と呼ぶこの上記の出来事は、私たちが「よみがえり」と呼ぶ別の下記の聖句にある出来事と同じものであると私は考えます。教会の携挙で、私たちの体はイエスの御体が死から復活された時のように、即座に変えられます。使徒パウロはコリントの教会に、死者がよみがえるという同じ出来事について書いています。
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第一コリント人への手紙15章50~52節)
この上記の出来事でも、ラッパの音が先に鳴ってから、死者がよみがえったことに注意してください。 死者のよみがえりは二度起こるのではなく、携挙とよみがえりは同じ出来事であることが分かります。私たちの地上での仮住まい、私たち全員がこの世で持っているこの罪深い体は、瞬時に変えられるのです。この変化は「一瞬のうち」(52節)に起こります。この言葉で使われているギリシャ語は atomō です。英語の atom (「原子」の意)はこのギリシャ語に由来します。この言葉は、時間の原子という意味があり、非常に短い時間を表します。つまり、即座に私たちが変化することを表しています。上記の箇所で「変えられた」という言葉は二度使われ、この箇所でのみ使われています。ギリシャ語は allagēsometha という言葉が使われており、「変わる、改める、変容する」ことを意味します。パウロはこの変容について話す前、神によって蒔かれた種に起こることについて述べ、この出来事を説明しています。彼が何を伝えようとしているか考えてみましょう。クリスチャンとして、私たちがどのように栄光のからだを受け取るかに関してパウロが書いている箇所に少し戻ってみましょう。
しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。死者の復活もこれと同じです。(第一コリント人への手紙15章35~42節前半)
パウロは種の例えを用いて、種はその元である植物とは大きく異なるものだと述べています。上記で彼は、私たちの肉体―種は、死ぬことによって蒔かれると、この罪深い時代が終わる時に大きく変化し、からだの復活が起こると言っています。復活のからだに関してさらに話す前に、この変化がどのように起こるかについて話さなければなりません。
私たちの心に蒔かれた神のいのち
人々がその人生をキリストに捧げる時、彼らに何かが起こります。彼らは聖霊によって新しく生まれ変わるのです。イエスは、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないと語られました。
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネの福音書3章3節)
使徒ペテロは次のように述べました。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました(第一ペテロの手紙1章3節)」。私たちのうちに蒔かれた霊的な種は、私たちが新生した時から成長し始め、神の御言葉、困難や人生の経験などを通して、ゆっくりと私たちはキリストの似姿へと変容されていきます。
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。(第一ペテロの手紙1章23節)
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。(ヨハネの福音書10章10節)
この「いのちの種」の特徴は霊的ないのち―完全、豊かであり、永遠に続いて朽ちないことです。上記の箇所で life (英語で「いのち」の意)」と訳されるギリシャ語 zōē という言葉で、「生きる」ことを意味するそうです。
「それは、生命力そのもの、つまり生物に活気を与える重要な原理を表す、やや形而上学的な用語です。zōēは永遠のいのちに関連して最もよく使われます。信者たちが受け継ぐこのいのちは、神のいのちそのものです。」
私はことばがどのように種とされ得るのかは分かりませんが、御言葉の力を信じています。神がことばを発せられた時、この世界は創造されました。創世記一章によれば、天地創造は神がことばを発せられることによって始まりました。「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった(創世記1章3節)」。「神は仰せられた」という言葉が何度書かれているか読んでみてください。神のことばには大きな力があります。
第一コリント人への手紙15章で、パウロは神がその種が成長する時にどのようになるかを定められるお方であると述べています(38節)。彼は、地上では人、動物、鳥や魚に異なるからだがあると語っています。全ての地上で生まれた被造物は種から来たのです。パウロは種について話す際、2つのたとえ話を用いています。
私たちの復活のからだは、今の私たちのように何かしらの方法で認識されることができます。パウロは、「また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です(第一コリント人への手紙15章37節)」と述べました。種の中には肉体のDNAがあります。オレンジはリンゴの種からは育ちません。種とそれを元にする体の間には共有される生命の連続性があります。私たちの御国での復活のからだは、地上での肉体のうちにある種のようなものでしょう。キリストの再臨の時に、私たちはその両方を認識することができます。
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネの手紙3章2節)
私たちの肉的ないのちがアダムから受け継がれ、私たちが彼のようになったのと同様に、復活の時には、最後のアダムである主イエス・キリストのようにされます。「私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです(第一コリント人への手紙15章49節)」。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。(第二コリント人への手紙3章18節)
起きる変化、その栄光の程度は信者によって異なるだろう、とパウロは述べています。彼はそのことを様々な輝きの星々に例えています。それらはすべて様々な輝きや栄光を放っています。私たちの肉体は、物理的な領域に住むために神によって創造されました。しかし、私たちは贖われ、神が私たちに身に着けるように計画された霊的および肉体的なからだに変えられます。
アダムから受け継いだいのちだけでは、天の御国に入るのに十分ではなく、キリストから受け取ったいのち―神からの贈り物―がなければいけません。生ける神の教会である贖われた人々に対する神の計画は、キリストが復活されてから40日間そうしたように、聖徒が霊的な領域と肉体的な領域で生きることができるようにすることであると私は信じます。キリスト・イエスは御自身のからだを地上に残しませんでした。彼は肉体的でありながら、霊的に復活したからだで天におられます。それは神の人エノクにも当てはまりませんか?神はエノクをとても喜ばれたので、彼を肉体的な存在のままで天に連れて行かれました。「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった(創世記5章24節)」。
同様のことが預言者エリヤにも起こりました。彼もまた、肉体のまま天に連れて行かれました(第二列王記2章11節)。エノクとエリヤは、黙示録(11章3節)で世の罪を証言する者として描かれている2人の証人であるとする人もいます。この2人はまだ一度も死んでいないので(ヘブライ人への手紙9章27節)、天から来て神の恵みを証し、そして殺される可能性があります(黙示録では二人が殺されると預言されています)。しかし、3日半の後、神は彼らを死者の中からよみがえらせるとも書かれています(黙示録11章11節)。
霊的ないのちは、植えられた肉体の種の死によってのみもたらされます。主イエス・キリストは、私たちに種として御自身のいのちを与えた天の霊的な種でした。
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。(ヨハネの福音書12章23~25節)
このことに関して、使徒パウロが第一コリント人への手紙で何と教えているか続けて見てみましょう。
復活のからだに関する中心的な聖書箇所(第一コリント人への手紙15章35〜57節)で、パウロは最初の人であるアダムが生きた種であり、私たち全員が彼の似姿に生まれた、と語っています。それからパウロは最後のアダム(キリスト)はいのちを与える御霊になったと述べました(45節)。パウロはすでに前の箇所で、アダムに起きたことは私たち全員に起きたことであると述べました。アダムは最初の人間であり、私たち全員の代表でした。アダムのすべての子孫が彼の罪の性質を受け継ぐことは、公平ではないように思われるかもしれません。その種のいのち―アダムの罪の性質は、私たち全員に受け継がれました。しかし、キリストは彼の完全な赦しを受け取る全ての人のための長となるために自ら来られました。このようにして、神は神のいのちを、完全で罪のない種であるキリストを通してもたらされたのです。「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです(第一コリント人への手紙15章22節)」。アダムが私たちに罪がある肉的なからだを与えたように、キリストは私たちの心に植えられる新しいいのちの種を与えてくださいました。キリストはいのちを与えるために来てくださったのです!
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。(第一コリント人への手紙15章42~49節)
- 上記の聖書箇所のどの言葉や文章が印象に残りましたか?この新しいからだに関するあなたの考えを分かち合ってください。
地に蒔かれるからだは、復活のからだとは全く異なります。私たちの復活のからだは、滅びることがないように作られています。死んだり、老化したり、風邪や病気になったりすることはありません。私たちの祖先であるアダムから肉体的ないのちを受け継いだように、クリスチャンは最後のアダムから霊的ないのちを受け取っています。キリストは「最後のアダム」と呼ばれるお方であり、「最後」であるということは、彼以外を求めるべきではないことを意味します。アダムの似姿を着たように、神の恵みにより、私たちはキリストの栄光の似姿をも着ることができます。
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント人への手紙15章50~57節)
私たちは変えられるでしょう
内側にあるものはいつか明らかになるでしょう。それは私たちの古い性質と同じではありません。パウロは、肉血のからだは神の御国を受け継ぐことはできないと言っています(50節)。それはもはや朽ちるものではなく、朽ちないものに変えられるでしょう(53節)。私たち全員が眠るわけではなく(すべてのクリスチャンが肉体から分離されるわけではありません)、死の過程を経ることなく即座に変えられる人もいます。キリストが一瞬のうちに来られる時、私たちは朽ちるからだから、朽ちないからだへと変えられるのです(51〜52節)。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(ピリピ人への手紙3章20~21節)
この「変えてくださいます」と訳された言葉はギリシャ語の metaschēmatizō を語源とします。この単語は2つのギリシャ語によって構成されています。 Meta は場所や状態の変化を意味し、 schēmatizō は形状や外見の形を意味します。つまり変容する、何かの形状や外観を変える、改造する、もしくは作り直すことを指します。
- 朽ちることがなく、死ぬことがないからだを持つことは何を意味すると思いますか(第一コリント人への手紙15章42節)?そのからだをいただいた時、以前はできなかったようなことで、何ができるようになると思いますか?
朽ちることがないからだとは、老化したり病気になったりしないことを意味します。そして、新しいからだは常に栄光に満ちています。あなたはいつも若々しい力を持ち、あなたから放たれる神の栄光で輝いて麗しいものとなります。弟子たちがユダヤ人を恐れて戸を施錠していた部屋に、イエスが壁を通り抜けて入って来られた(ヨハネの福音書20章19節)ように、私たちも壁を通り抜けて、物理的な領域に縛られることなく瞬時に移動することができることでしょう。私たちの新しいからだは、存在する1つの領域だけに限定されることはありません。私たちは地上での次元、この人生に制限されているので、今はこれを理解することはできません。大きく、広い樫の木が、それが成長する種と比較できないのと同じように、私たちの霊的なからだは私たちの創造を超越しています。比較できないのです。
パウロは、私たちの新しいからだはキリストの栄光のからだのようになる(ピリピ人への手紙3章21節)と述べています。新しいからだに伴う輝きには権威があり、麗しいです。イエスは「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます(マタイの福音書13章43節)」と言われました。キリストにある者たちは尊敬を勝ち取りますが、尊敬を勝ち取るのは上からの知恵から生まれたものです。彼らには優しさと喜びがあります。また、力あるものにされることでしょう(第一コリントへの手紙15章43節)。この力あるものとは物理的な強さのことでもあるのでしょうが、それだけを語っているとは思いません。イエスがなされたように、そして今もそうしておられるように、奇跡を行う力と権威が与えられると思います。私たちはイエスの働きに共に加わり、彼を礼拝するだけでなく、彼の御心を実行します。私たちのからだは復活させられ、私たちはイエスの御顔を見て、彼の似姿に変えられます。預言者ダニエルもその時について次のように語っています。
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。(ダニエル書12章1~3節)
ダニエルは、これはかつてないほどの苦難の時に起こるだろうと述べています。しかし、その時、神のいのちの書に名前が記されているすべての人が救われます。ダニエルが語っているのは、苦難や苦痛の時に聖徒の携挙が起こるということだと個人的に考えます。前回の学び「永遠に備える」で、あなたが天国に持って行くことができるものの一つは他の人々であると話しました。この箇所では、キリストのゆえに、他の人々に関わるために人生を捧げる人々は、永遠に星のようになると書かれています。「星のようになる」が一体何を意味するかは分かりませんが、この地上での人生におけるキリストへの奉仕と献身に値する素晴らしい報酬のように思えます!神があなたの内で行われたこと、またあなたを通して行われたことが明るみに出され、それは栄光に満ちます。この古く、朽ちていく体は、私たちの主のように朽ちないものになります。その時は、私たちの本当の家に帰る時です!ついに迎える卒業式の時です!この地上の人生はもはや私たちを制限しません。地上の体の死が終わりなのではなく、いつの日かイエス御自身の輝かしい復活のからだのような肉体が与えられる、輝かしい新たな始まりがあります。イエスは最初の実であり、私たちは彼のようにされるのです
祈り:
主よ、私たちのために場所を備えてくださっていることを感謝します。あなたと共に永遠に生きることができること、そのための天国への無償のチケット、福音のメッセージを感謝します。すべての人々がこの福音を聞き、また読み、先延ばしにすることなく、あなたの罪に対する完全な赦しに応答することができますように。あなたの光が私たちのうちにより輝いていきますように。アーメン(「その通りです」の意)。
キース・トーマスより翻案
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