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7. Signs of Christ's Second Coming
7. キリストの再臨の兆候
ルカの福音書21章5〜11節
終末の時代
この学びのテキストは「ルカの福音書の学び」(NO.55)でも読むことができます。ルカの福音書の後半の章では、過ぎ越しの祭りでご自分の身に降りかかる事柄を知りながらもエルサレムへ向かわれたイエスの姿を追いました。盲目だったバルティマイが癒やされ(18章35〜43節)、イエスが取税人に手を差し伸べられたのを目撃しました。そして、天の父の宮である神殿で両替人の台を倒されるほどのイエスの神に対する情熱を見ました(マタイの福音書21章12節)。それはイエスが、神殿が「強盗の巣」ではなく「祈りの家」となることを願っておられたからでした。私たちはイエスの知恵のことばを聞きました。祭司長、律法学者やサドカイ人たちのずる賢く、策略的な質問に対して見事に答えられましたが(ルカの福音書20章1〜47節)、イエスは彼の死、復活、昇天、そして大きな力と栄光にある再臨に向けて弟子たちを整えられ始めました。
終末の兆候
それは十字架刑の前の水曜日でした。早朝から夜まで、イエスは宮で人々を教えられていました(ルカの福音書21章37〜38節)。マタイによる記録では、宗教的なユダヤ人たちに7度「災いだ」と宣告された後、日が落ちてからすぐに東の門を通ってオリーブ山と呼ばれる神殿から数百ヤード(約数百メートル)ほど先にある山へ向かわれたとあります(マタイの福音書24章1節)。早朝に開く東の門を通って神殿に向かうためにイエスがゲッセマネの園で休まれていたゆえに、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムを訪れていた人々に教えることができた可能性もあります。「ゲッセマネ」という言葉は「オリーブ油搾り」を意味します。使命という重荷が主イエスにのしかかったのはこの場所でした。さて、その水曜日の夜に神殿を出た時、弟子たちはヘロデの神殿がどれほど美しく、また宝石で飾られているかに目を留めました。使徒ヨハネは、神殿の建設はイエスの十字架刑の46年前に始まり(ヨハネの福音書2章20節)、完成までまだ何年も掛かる見通しだったと述べています(神殿は西暦70年にローマによって破壊される7年前に完成しました)。
神殿とその中庭は世界の不思議の一つでした。オリーブ山から神殿を眺めると、そこには素晴らしい光景が広がっていたことでしょう。ルカの福音書の注解書で、R・ケント・ヒューズは神殿時代に生きていたユダヤ人歴史家ヨセフスの記録について書いています。
建物の外観には、心も目をも驚かせるような意図はなかった。なぜなら、四方が巨大な金の板で覆われていたので、それらが太陽の光を照り返して非常に強い閃光を放ち、神殿を見ようとする者は、その光から目をそらさざるを得なかったからである。エルサレムに近づいてくる外国人たちには、それは遠くから雪に覆われた山のように見えた。金で覆われていない部分はすべて純白だったからだ。頂上には鋭い金色の棘が突き出ており、鳥が屋根に留まって神殿を汚すのを防いでいる。建物の中の石のいくつかは、長さが45キュビト、高さが5キュビト、幅が6キュビトあった。[1]
イエスと弟子たちがゲッセマネの園に向かって東へ進んでいた時、イエスは神殿の崩壊を預言されました。
さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。「あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」(ルカの福音書21章5〜6節)
質問1)ユダヤ人たちが「どの石も・・・ほかの石の上に残ることのない」という言葉を聞いた時、その預言に対する反応はどのようなものだったと思いますか?
イエスの預言は人々にとって衝撃的でした。神殿のすべての石が崩されるということは、ユダヤ人たちの理解では終末の時代を意味しました。イエスの言葉を確認する必要があるわけではありませんが、預言者ミカは神殿の崩壊とその理由について語っています。
これを聞け。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げている。流血でシオンを、不正でエルサレムを建てている。そのかしらたちは賄賂を取ってさばき、祭司たちは代金を取って教え、預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主を当てにして、「主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上に及ばない」と言う。それゆえ、あなたがたゆえにシオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。(ミカ書3章9〜12節)
西暦70年のティトゥスによる神殿の破壊だけでなく、ローマ皇帝ハドリアヌスが、独立を目指したユダヤ人たちの2度目の反乱を鎮圧した西暦135年にも神殿がさらに破壊されています。シモン・バル・コクバがその2度目の反乱を率いていました。2世紀のローマの歴史家カッシウス・ディオはローマが約58万人のユダヤ人を殺し、その時エルサレムを破壊して都全体または一部を耕したと主張しました。すべてのユダヤ人は追放され、エルサレムに戻ることを禁じられました。ミカとイエスの預言は成就したのでした。イエスの言葉に気落ちした弟子たちはそれがいつ起こるのか、そしてイエスが支配し統治するようになる時代の兆候について尋ねずにはいられませんでした。
そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。(ルカの福音書21章7〜11節)
福音書の3人の筆者がこのイエスによる同じ発言を記録しています。それはマタイの福音書24章、マルコの福音書13章とルカの福音書21章にあります。マタイは弟子たちがイエスに預言について尋ねる前に、イエスと一緒にオリーブ山で座っていたと書いています(24章3節)。マタイとマルコはイエスに尋ねた2つの質問を記録しています。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか」(マタイの福音書24章3節)。これに対するイエスの応答は、それまでイエスに投げかけられた質問に対する答えのなかで最も長いものでした。質問の中にある、これらの2つの出来事とは、先述した西暦70年に起きたエルサレム崩壊、そしてこれは私たちの時代でも部分的に進行中ですが、キリストの再臨に至るまでの時代です。ただ、この書簡の筆者は質問の後半で、「あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか」(マタイの福音書24章3節)と問いかけていることから、2つめの出来事は私たちより先の時代について語っていると考えます。
終末初期の警告の兆候
大いなる惑わしの時代に関する神の警告は次のようなものです。「惑わされないように気をつけなさい」(ルカの福音書21章8節)。私たちはその惑わしの時代に生きています。敵であるサタンは政治、メディアや教育におけるあらゆる影響力のある立場を支配している人々を配置しています。彼らは社会を新たな次元の腐敗に導く価値観や欺瞞を促進しています。敵は心を堕落させ、支配しようとしています。この誘惑は人類の堕落以来ずっとあり、キリストが再臨される時まで私たちは霊的な戦いにあります。キリストを信じる者は聖書の真実を守り、敵の洗脳装置であるメディアやテレビ、インターネットの情報を一番に信頼するべきではありません。私たちがテレビで見る情報のすべてが有害という訳ではありませんが、どんな情報も健康的な批判的態度で考慮する必要があります。すべての物事は神の御言葉の基準に照らし合わせて吟味されるべきです。何を、そして誰を信じるかを決めなければなりません。聖書はメディアの情報をそのまま受け入れるのではなく、その真意を吟味するように告げています。私たちはすべてのものを神の御言葉と照らし合わせます。
愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(第一ヨハネの手紙4章1節)
質問2)もし惑わしがイエスの再臨の初期の兆候であるとしたら、今日あなたは神の知識と神の御言葉から人々を遠ざけさせるどのようなものを目にしてきましたか?今日、真理への価値観が攻撃されていると感じますか?それはどのように攻撃されていますか?
その人物と一緒にしるしを行って自分自身を「子羊」と主張する宗教的人物が現れますが、その本質は「竜」の性質です。彼は世界の指導者である反キリストが崇拝されることを要求するでしょう。
また私は、別の獣が地から上って来るのを見た。それは、子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。この獣は、最初の獣が持っていたすべての権威を、その獣の前で働かせた。また、地と地に住む者たちに、致命的な傷が治った最初の獣を拝ませた。また、大きなしるしを行い、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。また、この獣は、あの獣の前で行うことが許されたしるしによって、地に住む者たちを惑わし、剣の傷を受けながらも生き返ったあの獣の像を造るように、地に住む者たちに命じた。(ヨハネの黙示録13章11〜14節)
一般的に「偽預言者」と呼ばれるこの人物は、大いなる奇跡的しるしを行い、火を天から地に降らせますが、そのようなしるしに注意を払わず、神の御言葉にある教えを握らなければなりません。騙されてはいけません!私たちを騙して彼らに従うように仕向けようとする人々がいても、これはまだ初期の兆候であるとイエスは告げています。「まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです」(ルカの福音書21章9節)。
戦争と革命
惑わし、偽の指導者、戦争や革命はすべて初期の警告すべき兆候です。民族は民族に対して、国は国に対して立ち上がるとイエスは警告されました(ルカの福音書21章10節)。第一次世界大戦で亡くなった人々の統計は3150万8200人です。第二次世界大戦で亡くなった人は5219万9262人でした。他の国々が起こしたその他の紛争の犠牲者を含まずとも、20世紀に起きた2つの世界大戦だけで8300万人以上が亡くなったのです。
第二次世界大戦中には600万人以上のユダヤ人がナチス・ドイツによって殺されました。この戦争は、ユダヤ人の古の故郷、イスラエルにユダヤ人の帰還をもたらしました。それ以来、ユダヤ人は1948年にイスラエルが建国されてから5つの主要な戦争(1948年、1956年、1967年、1973年、1982年)を経てきました。このことを通して、イエスがイスラエルで起こる兆候のみに言及していたと示唆するつもりはありません。イエスが語られた預言的兆候は世界規模での出来事です(ルカの福音書21章35節)が、イスラエルでも多くの戦争と革命が確かに繰り広げられてきました。主は戦争だけでなく革命も起こるといわれました。当時イスラエルの首相であったアリエル・シャロン(1928〜2014)が、2000年9月28日に論争を呼ぶこととなった神殿の丘への訪問を行い、その最も聖なる場所でユダヤ人として祈ったときにパレスチナ人たちが暴動を起こしました。エルサレムは1967年にヨルダンから奪還されましたが、神殿の丘は依然としてイスラム教徒の手中にあります。シャロンによるこの行為は、いわゆる「第二次インティファーダ」の始まりとなりました。しかし、一部のパレスチナ人はインティファーダの原因になったのはアリエル・シャロンの訪問ではないとしました。彼らは暴動のきっかけは同年7月25日のキャンプ・デービッド合意の決裂にあったと考えています。イスラエルでのこの蜂起または革命は、近年起こった多くの事件の一つにすぎません。今日、世界中で私たちは不安なニュースを耳にします。
英語の「革命(revolutions)」はギリシャ語の「akatastatos」 から訳された言葉で、以下のような意味を持ちます。
固定された、または落ち着いた状態、何かを確立すること、安定させること。騒ぎ、乱れ、混沌、混乱、無秩序。政治的または社会的革命、暴動、扇動を表す言葉として使われる。暴動、蜂起、騒動。
私たちは今、すべての国で政治的秩序に対する革命の時代に直面しています。世界は混乱状態にあり、今後もそのような状態が続くことでしょう。それは、混乱、恐れ、内乱や政治的革命をもたらすという敵の計画の一部です。このような情勢下では、一人の人間が世界統一政府を管轄するほうが、地球の人口を管理しやすいでしょう。
それからルカは、次にイエスが恐ろしい出来事や天からのしるしと共に人間に降りかかる地震、飢饉や疫病について語られたと述べています。
大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。(ルカの福音書21章11節)。
コロナウイルスは終末の「疫病」なのか?
黙示録6章5〜8節は、近々来るべきキリストの再臨に関する兆候の中で、飢饉や疫病のために命を落とす人がたくさんいると述べています。この学びを執筆していた時(2020年3月27日)、コロナウイルスの発生によって既に数千人が死亡していました。上記の箇所(21章11節)で、ルカは恐れを引き起こす飢饉と疫病、そして恐ろしい光景と天からの大きなしるしについて記しています。コロナがルカによって言及された「疫病」であるかどうかはさだかではありませんが、現世が全てではないという現実に私たちを目覚めさせ、王の再臨に備えさせるための神からのしるしかもしれません。「疫病」という言葉は、ペストなど、致命的な流行病を意味するギリシャ語「loymos」に由来します。個人的な見解として、私はコロナが人々を揺さぶり、注意を喚起することを神によって許されていると考えています。
マタイの福音書では、霊的な眠りから私たちを目覚めさせる兆候に関してさらに言及しています。イエスは「生みの苦しみの始まり」と述べられたいくつかの兆候について述べています。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです」(マタイの福音書24章7〜8節)。
質問3)イエスが出産の苦しみにある女性のたとえを使って言及したことについてどう思いますか?(マタイの福音書24章8節)。
妊婦の出産が始まるとき、痛みはそれほど酷くなく、陣痛は数分間隔で起きます。しかし、子供の誕生に近づくほど陣痛の頻度が多くなり、痛みの度合いが遥かに大きくなります。このたとえを用いて、世の終わりに近づくほど、戦争、革命、飢饉、疫病や地震がより頻繁に起こるとイエスは言われました。女性の陣痛がより痛みを伴うようになるのと同様に、地上の多くの人々の痛み、苦痛や病気、そして死傷者の数も同様に大きくなります。戦争と革命は非常に深刻で、多くの人命が失われるでしょう。マタイは次のように語っています。
もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。(マタイの福音書24章22節)
その困難の日数は、私たちの主イエスの再臨によって短くなります。イエスは彼のものとされた人々のために来られます。これはあなたと私にとって何を意味するでしょうか?今私たちはキリストのものであることを再確認し、キリストが来られる再臨の時、恥じ入ることがないようにしましょう。私たちはこのように想像を超越するような時代に生かされていますが、恐れる必要はありません。キリストが帰ってこられることが喜びとなるはずです。確信と平安がキリストにあるすべての人を満たし、キリストが世界中のすべての出来事を、私たちのいのちと共にその御手に握られていることを知ります。このことを念頭におくと、この世のものを頑なに握りしめる必要はありません。神が全てを支配しており、私たちはその事実を思い起こす必要があります。
ルカの福音書と同様の内容が記録されている一節にて、マタイはイエスが宗教的指導者たちに対して7度「災いだ」と宣告されたと記し、次の言葉でその箇所を閉じています。
エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(マタイの福音書23章37〜39節)
私たちはその預言が成就されつつある時代に生きています。イスラエルの地には現在200のメシアニック(ユダヤ人でありつつイエスを信仰する人々をさす)の共同体があると言われています。イエスはユダヤ人が彼を歓迎するまで、二度と現れないだろうと言われました。イスラエルの中の多くの人々が本当のメシアに心を開いている時代に生きていることに感動を禁じ得ません。
終わりが来る前に暗闇の時代がありますが、そのすべてが悪い知らせではありません。闇は光に打ち勝つことはありません。聖書は終わりの日に何が起こるかについて、光を当てています。
ペテロはペンテコステの日(聖霊降誕日)に群衆に向かって次のように語りました。
『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。(使徒の働き2章17〜18節)
私たちがこの生涯で何を経験するかに関わらず、ペテロがペンテコステの日にダビデの言葉を群衆に語った箇所の引用でこの学びを締めたいと思います。
ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』(使徒の働き2章25〜28節)
ペテロは群衆に、この聖句はナザレのイエスについて述べていると語りました。イエスはあなたと私のために道を開かれたので、私たちもこの聖句を引用し、困難な時でもその真理を握ることができます。神は私たちにいのちの道を知らせてくださいました!神は神の御前に喜びを約束され、決して私たちを置き去りにしたり、見捨てたりしません。私たちの周りの状況がどうであれ、神が支配しておられると信頼することができます。「主よ、あなたを信頼します!あなたが私の右におられるので、私は揺るがされることがありません!」
祈り:
天のお父さん、この地上で起きている出来事を見る時、私たちを試みにあわせず、1日1日を精一杯生きることができるように助けてください。毎日をあるがままに受け入れ、その中であなたに力の限り従うことができるように助けてください。大切な物事――永遠の価値を持つもの――に目を留めたいです。「祝福あれ、主の御名によって来られる方に(詩篇118篇26節)」。アーメン。
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キース・トーマス
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本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。
[1] R. Kent Hughes, Commentary on Luke, Published by Crossway Books, Page 296.